余裕ない
余裕ない。
眠い。
今日から痩せる。
パワー🌱
友人とT軒へ行きました。
パワーをあげれる人になれてよかったです。
バイトもたくさん売り上げてよかったです。
指がちぎれるよ
今日は1月6日です。
グランピング二日目。
大きいケトルでコーヒーを淹れ、朝食にホットサンドを作った。
制圧された自然は気味が悪いと昨日書いたけれど、前言撤回。
自然を制圧するなんて無理だ。指がちぎれちゃうくらいに寒かった。
勝てない、体温の低下に勝てるわけがないよ。
雪がどしどし降っていて、こんなところで眠ったら凍死してしまう。
きれいに整えられた芝生は全部銀色に覆われていて、見渡すかぎり一色だった。
バス停がなかなか見つからないので、二人分の荷物を詰め込んだスーツケースをごろごろ転がしながら、シベリアで行倒れる旅人を想起していた。
さむい……。
急行電車に乗り込んで、(特急は待てなかった。これ以上外にさらされるのが耐えられなかったからだ)普段は警戒して寝ることができない電車の中で、ふと意識を飛ばしてしまった。
眠るみたいに生きてるくせに、本当に眠るのはこわい。
家に帰った。
英語の勉強をしたら涙が出た。
何か勉強しようと思うと、途端に不安な気持ちになる。
本を読むのは、他人の思考をなぞっているだけでいいし、本に書いてあることは、たいてい読む価値のあることだから、読むという行為で人生を無駄に消費しているという気持ちにはならない。
ただ、こと自分で勉強するとなると、もっといい方法はないか、本当にこの方法であっているか、これは正しいか、すごくいろいろなことが気になりだす。
内容に集中しようと思えば思うほど不安になる。
昔からの癖になっているのかもしれない。泣きながら勉強するのが。
何かをやらされていると感じた瞬間に、ストレスで暴発しそうになる。
とどのつまり勉強が嫌いだが、同時に学ぶことや体験が大好きだからこそ、葛藤が生まれる。
勉強したいと思う。実際に勉強する。途端に不安になる。勝手に涙が出る。
もっと気楽にやればいいとわかっていても偏執的になってしまうのを何とかしなくては。
人生と一緒だ。
ああほんとうに自分は人間の屑だというところまで落ち着くと、逆にやる気がわいてくる。
数年前までは、勉強中に頭を打つか指を曲げるか手首を切るかしていた。痛みに注意を向けるためだ。
精神的な自傷を物理的な自傷に置換すると、やめ時が分かりやすくなるのでいいと思う。
こころの痛みは目に見えないが、体の症状に出る。
はやくおわる。
またあした。
大人になったら全然会えない
今日は1月5日です。
K公園でグランピングしています。
ラップトップは持ち運ばなかったので、スマホで入力しています。そのため気が乗りません。
地面のコンクリートは滑らか、建築物には角がなく、芝生は均等の長さに整えられている。色は、“自然”な色。
制圧されつくした自然は気味が悪くて大嫌いだ。
キャンプをするというから、来たのに。ブーツが躓かない道を歩くだなんて、つまらない。
自然に対する畏敬は日本人の尊厳だった。それなのに、完全に設計しているなんて、まるで神様になりかわったみたいだ。
全ての直線と鋭利が排除された、なだらかな丘を一人で降った。風の音のほかは無音。鳥の鳴き声のひとつも聞こえない。命の匂いがしない。草花が生えているのに虫が一匹も、蟻の一匹も見当たらない。
だから気持ちが悪い。
だから綺麗だ。
イデア界。
子供がタコを飛ばしていた。近くで見たらスプラトゥーンのイカだったけど、遠くで見る分には翼に見えた。
大人と子供と老人が調和していた。
誰も怒っていない、誰も悲しんでいない。ただぼんやりと幸せを享受している。魂が遊んでいる。
天国みたいな風景だった。
日が暮れてから数時間、妹と焚き火をした。
焼いたマシュマロ、スモアは特異的に美味しい。
私は人間が好き。妹は人より猫が好き。
私は人が死んだら寂しい。妹は人が死んだら悲しい。
人にはひとの倫理観。
見える幽霊はもはや幽霊ではない。
またあした。
病気ってあるのかな
今日は1月4日です。
「病気ってあるのかな」
韓国アイドルが流行っている。
整形も、もはや当たり前のものとして許容され始めている。
私は、人が顔をどうしようが自由だと思うので、否定も肯定もしない。
各人のよりよい人生のため痛みに耐えるのは、すごいことだとすら思う。
人中が長い、短い。二重幅が狭い、広い。
整形とは、相対化された身体的特徴を、平均に近づける手術だ。
相対化されたもの、平均からどれだけ離れているかで、人の個性は語られる。
ところが、血圧が高い低い。血糖値が高い低い。腫瘍の数が多い少ない。骨の数が多い少ない。
これらの身体的特徴は病気らしい。病院に行かないといけない。
鼻水が多い少ない。くしゃみの回数が多い少ない。体温が高い低い。
これらは風邪だ。病院に行くか休まないといけない。
病気と個性の境界線がどこにあるのか、という疑問が湧きだした。
というか、ずっとある。
私はうつ病だったらしいときに、抗うつ薬を飲み、ただ寝るだけの生き物になっていた。ずっと寝ている人。寝坊助。
学校ではずっとぼうっとしていたし、涙が勝手にぽろぽろこぼれる時もあった。
自分の意志とは関係なく。
人は私を浮世離れしているというが、それは個性で済まされるはなしなのか。
ずっと普通になろうと、頑張ってきた。
人間がどういう反応をするのか、逐一観察して、その学習の産物で、いまこうして人とかかわることができている。
その精神的なプロセスは、病的だったか?うつ病と診断されればそれまで、私は脳に支配されていたことになってしまう。
私の葛藤を所有するために、私は自分に病名を与えることはしたくない。
難しい。
今日は外に出て、電子上でも人とやり取りをしたので疲れてしまった。
アレルギーでのどが苦しい。蕁麻疹もひどい。
ソクラテスはデルフォイの神託があってよかったな、うらやましいな、と思う。
私は何もわからないということを十分に知っているが、自分がおかしいのか、周辺環境がおかしいのか、世界の側がおかしいのか、社会のシステムがおかしいのか、ということに彼ほど自信を持てない。
自己肯定感は存在しない。肯定する自己は常に変遷しているから。
自分よりも何もかもを知っている人にすべて決められてしまえば、さぞかし楽なんだろう。
でも私は誰のいうことも聞きたくないし、生き死にくらい握っていたい。
反抗期だ。自分のそういうところは結構好きだ。
昨日四万円、今日三万円を母に返した。
働いた金、もらった金、どちらもなくなった。
簡単に得た金は簡単に使うというが、苦労して得た金も簡単に使ってしまう。
そういうのってよくない。
消費サイクルを唾棄しておいて、自分は何も考えず散財している。
だっていきたくないから。
いきたくない、いきたくない、私が人生で最も口にしているわがままだ。
いずれ手痛い罰が下ると思っている、天国の構造を私は知っているので、そこに行けないことも同時に知っている。
明日が大嫌いなのは変わらない。明日を無謬に信じられなかった頃の名残だ。
夜寝るのが怖かった、おかされるのが、無防備をさらけ出すのが怖かった。
友人に、堂々としているといわれる。肝が据わっていて、大胆だと。
昔はそれほどでもなかった。自分の命を自分でどうにでもできる、いざというときは簡単に手放せてしまえる、命はどこまでも薄くて軽いということを実感するまでの話だ。
こういうことをいっていると、きっと理不尽が発生する。
しかしすべての対象は完全な被害者ではありえない。
大丈夫、怖くない。今は怖いものなんて何もない。
子供の居場所をつくる。
作って、早く終わる。
目的があって、そのための時間と能力があるのだから、もはや人間であることを放棄したっていい。
機構に徹すればいい。目的を果たすための下位機能に自己を規定すればいい。
目的のために人望が必要だ、一度だって手にしたことのないそれを、いま必死に集めようとしている。
あるいは行使するだけの実力を。
手段は択ばない。正しさが助けてくれないと知っているのに、いつまでも形式にとらわれているのは馬鹿らしいからだ。
冗談をいう気力がない。寝る。
またあした。